2007年07月29日

弱小政党に贈る、抜本的選挙制度改革案

今日が参院選の投票日。私も午後5時半に投票を済ませた。
しかし、昼間は投票場の前に張り付いていたNHKの出口調査員の姿はなかったから、私が投票用紙に何を書いたかなどは無視されたままで、NHKのみなさんは結果予測に励まれるわけである。

さて、今回の参院選、年金の不始末をコレ幸いに、野党は巻き返しをはかれるだろうか。
ただ、野党の言うことにしても、机上の空論ばかりで、実効性や説得力に欠けるから、結果は見るまでわからない。

それにしても日本の政治、ある一時期を除けば、ほぼ自民万年与党状態。なかなかに政権交代っていうのは困難なようだ。
たぶん野党のみなさまは、辛酸を舐めるのにも飽き飽き状態。下手すると、辛酸が舐められないと手が震える、なんていう中毒症状に陥っているかもしれないですわねえ。
てなことで、そんなみなさまに心から熱いエールを送るべく、抜本的選挙制度改革案を考えてみた。

それはどういうものかというと、至極簡単。
これまでのように、良しとする政党・候補者に1票を投じるだけでなく、絶対に当選して欲しくない政党・候補者にマイナス1票を投じなくてはならない、という制度である。

で、この制度を導入したなら、どのようなことが起きるか、簡単なシミュレーションをしてみよう。

現状の勢力分布で考えると、野党支持者のほとんどは自民党にマイナス1票を投じるだろう。
一方、自民党支持者は、いちばんの強敵である野党第一党の民主党にマイナス1票を投じると思う。中には「何が何でも共産憎し」てな人もいるかもしれないが。

ともかくも、与野党伯仲状態では自民党がいくら得票しても、マイナス票で差し引かれるから勝利はかなり怪しくなる。
民主党もたぶん自民党との潰し合いで、相当苦戦を強いられるだろう。
となれば、それ以外の政党が勢力を一気に伸ばせるのである。
支持者は絶対プラス票を入れるだろうし、その一方、わざわざマイナス票を入れようという有権者も珍しいだろうからね。

弱小政党のみなさんよ、どうじゃな、この見事な案は。
本当に政権がほしけりゃ、与党の上げ足取りばかりやっていないで、これくらいのことを言ってみろ、ってなもんだ。

とにかく、これで政権交代間違いなし!
と太鼓判を押したいところだが、「自分たちに任せたら、日本はどれだけ良くなるか」てな調子のいいことを言い続けながら、「全員当選しても大した勢力にならない」って数しか候補者を立てない政党もあるから困ったもんだな、福島君よ。

その点、「確かな野党」を標榜しながら、与党に迫る数の候補者を立てる志位君のところは、アッパレとしか言いようがない。
まあ、逆読みすると、通らないとわかっていながら、数だけはたくさん候補者を立てているということでもあるが。
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2007年07月28日

直接民主制は物理的に不可能、なんて理屈は、今となっては通用しないぞ

ちょっと間が空いてしまった。
自身のナマクラさ、コンジョーのなさの証である。
エクスキューズさせてもらえれば、ホントのことというのは、そうそう毎日言えるものではないという証でもある。
真実とはいつの時代も計画生産は不可能なのだ。思いついたときにしか語れない。

それにしても、今日は暑い。
急に夏本番がやってきたのに加え、参院選投票日の前日。いわゆる「最後のお願い」の日であるから、各政党・各候補とも金切り声を張り上げている。
それがいちばん暑苦しい。ムダなエネルギーの消費は地球温暖化に拍車をかけるだけだと思うがね。

今日のような日に思い出すのは、昔授業で習った間接民主制の誕生の話。
簡単に言うと、

「民主主義発祥の地である古代ギリシアでは、市民全員が議論に参加する直接民主制が取られたが、社会規模が大きくなって全員参加の議論が難しいので間接民主制が取られるようになった」

というような話である。

IT社会に宗旨替えしてしまう前に義務教育を受けた私は、この話を結構本気にしていたが、これだけ通信ネットワークが発達した今、「できるか、できないか」だけを問えば、直接民主制も決して不可能ではないだろう。

それでもし、直接民主制が可能となるなら、政党や議員を介さずに政治に参加できるようになる。早い話、「○○議員選挙」というものが不要になるのである。

だたし、もっと言えば、議員の先生方はたちまち失業してしまうから、まず、「直接民主制にしよう」という法案は決して上がってくる可能性はないと思う。
また、実際のところ、参政権のある国民全員が好き勝手言い出したら、まず、どんな話し合いも収拾がつかなくなるし、愚衆政治・愚民政治に陥ることは必至だろう。
だから私自身も、こういう直接民主制なんて全然まったく望んではいない。

だが、インターネットを活用すれば、国会や地方議会を通過した法案について、すべての有権者の賛否を探ることぐらいは可能ななずだ。
また、制度の運営方法によってはまったく機能の仕方が変わってしまう「国民投票制度」なんて根底から覆されるだろうし、マスコミが行うまことしやかで正体不明の世論調査なんていうのにも耳を貸す必要がなくなる。

インターネットに馴染んでいないお年寄りなどがどのようにして参加するのかなど、一考を要する部分もあるだろうが、本気でやれば何とかなるような気がするのだがどうだろう。

少なくとも現在、「社会規模が大きくなって全員参加の議論が難しいので間接民主制が取られるようになった」という理屈は、すでに通用しにくくなっているように思うのだが。
posted by born-in-1959 at 11:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月26日

【仮説】指定業者です、と言い切れる自信はどこから来るのか

これから記す内容は、すべて筆者の空想による根も葉もない造り話である。
だから、一言たりとも本気にしてはならない。
特に、実在の団体とそのイメージをダブらせて読むようなことをしてはならない。
絶対の絶対、そういう読み方をしてはならない。
そう心に誓える人だけが、この先を読み進めることができる。
誓えない人は、すぐに退場しなくてはならない。

この約束を守れない人からのクレームは一切受け付けない。
もちろんまったくの造り話であるから、約束を守るとした上で読み進めた人は、どんなことがあっても、この話を信じてはならない。
信じたことによって何が起ころうと、筆者は一切責任を取らない。



では、本題に入る。
念を押すが、以下はすべて造り話で、地球上で起きているすべての出来事、及び、人類史上これまでに起きたすべての出来事とは無関係である。

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ある日のことだった。
年老いた両親の住んでいるマンションを訪ねたところ、キッチンで1人の男が、レンジフード用のフィルターを、まさに今、取り付けようとしていた。

この男は誰か、と両親に聞けば、マンションの指定業者を名乗ったという。

しかし,..私の記憶では、両親のマンションにこのような指定業者は一切入っていない。
だから私はその男に「本当に指定業者か」と問い質した。
男は「そうだ」と断言した。

「本当にそうか、そんなはずはない。このマンションに、レンジフード用のフィルターの優先的取り付けが認められている指定業者など1つもないはずだが」と再度問い質した。

男は再び「いや、われわれは正規の指定業者だ」と、自信ありげに言う。
そして、これから定期的に交換に来ると言うので、値段を聞けば1カ月1万円近くかかるとのこと。

私はポケットから携帯電話を取り出し、男の前でマンションの管理会社に電話して確認した。
もちろん答えはノー。「そんな業者は1つたりとも認めていない」とのこと。
「だからねぇ、こういうことなのよ。アンタ、年寄りに嘘はよくないよ。とにかく帰ってくれ」と、私は男に退却を迫った。

それでも男は納得のいかない顔をしている。
「帰らないと警察を呼ぶからね」と言ったら、ようやく渋々出ていった。

「図太いヤツよ」と、心で唾を吐きながら、ふと、ある思いが私の脳裏をよぎった。

本当のことを知っていたら、そこまで堂々と自分の正義を主張できるだろうか…。
もしかすると、この男は信じ込まされているのではないか…。

事務所のボスがその男に、
「うちはあそこのマンションの指定業者だから、堂々と売ってこい」と送り出す。

さらには、
「入居者の中には、うちが正規の指定業者であることを知らない奴がたくさんいる。そしてそういう奴らは、悪徳業者に騙されないようにと、誰が来ても、お宅は指定業者でないはずだ、と追い返す。だが、われわれは、それに怯む必要はない。何たってうちは正規の指定業者だから」と。

人間というもの、嘘でも自信を持って言われると、たやすく信じてしまうところがある。
気力が衰えつつある年寄りは、とりわけそうかもしれない
そういう類いの業者が、マンションのレンジフード用フィルターだとか、防火設備の保守管理、その他諸々のサービスを次々と売り込む。

その手のビジネスの顧客になってしまった人々には申し訳ないが、これはまだ序の口かもしれない。まだ、かわいいものなのだ。

もし、政治団体、宗教団体のように、社会的に大きな影響力を持ったり、人の精神生活に大きく関わる集団で、このようなことが行われていたなら…。

たとえば、その本部は海外にある。そして、何らかのかたちで日本人を洗脳したり、自分たちの都合のいいように日本の世論を誘導しようと企んでいる。

その日本支部の代表や幹部にも、そのことは知らさず、社会正義や人類普遍の幸福を追究するための活動をしているものだと信じ込ませる。

仮に、ある世界的宗教の伝道師が、実は植民地支配の先兵であるところの洗脳部隊だったとしたら…。
あるいは、世界を牛耳りたいグループが、既存勢力を駆逐するため、既存勢力が依拠している経済原理を、「弱者の人間性をスポイルする最大の悪だ」と断定しつつ、別の経済理論を構築し、世界に広めているとするなら…。

さらには、そういうことが、数千人、数万人という単位ではなく、何百万人、何千万人、何億人、何十億人という規模を対象に行われていたなら…。
もっと言えば、2つ目の例に挙げた経済理論が、世界各国の大学で教えられていたとするなら…。

こういった活動は、規模が大きければ大きいほど、人を信じ込ませやすくなるのかもしれない。


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最初に断ったように、以上の内容は、すべて筆者の空想による根も葉もない造り話である。
だから、一言たりとも本気にしてはならない。
特に、実在の団体とそのイメージをダブらせて読むようなことをしてはならない。
絶対の絶対、そういう読み方をしてはならない。

この約束を守れない人からのクレームは一切受け付けない。
もちろんまったくの造り話であるから、約束を守るとした上で読み進めた人は、どんなことがあっても、この話を信じてはならない。
信じたことによって何が起ころうと、筆者は一切責任を取らない。

くれぐれも、すべては造り話であることを、重々ご理解いただきたい。
posted by born-in-1959 at 02:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月24日

戦争を放棄している国は、他国にとってワンダフルに決まっているぞ

ベルリンの壁があっけなく崩れ、東西冷戦が崩壊した今も、共産主義を標榜する政党は少なくない。

日本共産党、中国共産党など、もろ「共産党」を名乗っているケースもあれば、朝鮮労働党のように「労働党」を名乗るケースもある。

そして、共産主義を標榜する政党は、軍事力が大好きなようだ。
例外は、日本人ならきっと誰もが知っている1党だけ。その党だけが軍事力を否定しているにすぎない。

さらに言えば、共産主義を標榜する政党が政権を掌握している国は、軍事予算に大きなウエイトを置いている。

冷戦崩壊後の今に及んで、まさか各国の共産主義政党が、共産主義を全世界に輸出し、地球全体を共産主義革命に染め上げようと本気で考えているとは思えない(私が思っているだけで、実際のところはわからないが)。
だが、強い軍事力を誇る共産主義国家が、戦争を否定している国に戦争を仕掛けてきたなら、その仕掛けられた国はどうなるのか。

結果は、火を見るよりも明らかだし、そうなれば、平和とまったくの対極にある地獄の被占領民生活を強いられるだろう。この可能性は決してゼロとは言い切れない。

もちろん、それなりの軍事力を用意している国は共産主義国家だけではないし、アメリカは言うに及ばず、永世中立国を宣言しているスイスもそうだ。
何かの拍子に、そういった国が、その軍事的脅威を以て迫ってこないとも限らない(スイスはまさかと思うがね。だが、先のことは誰にも何もわからない)。

そのときの結果もまた、火を見るよりも明らかだ。

地球上のほとんどの国、ほとんどの人々は、きっと平和を好んでいるはずだ。
しかし、だからこそ、ごく一部の例外を除いて、国の平和を守るため軍備に力を入れている。

軍事力なんて、ない方がいいに決まっている。
なら世界各国が軍事力を放棄しようとしているか、というとそうではない。
軍事力を否定した平和主義がそれほどいいなら、どの国もそれに倣っているはずだ。

「○○国の平和主義は素晴らしい」と称賛しても、決して自分たちは採り入れない。これほど卑怯なことはない。
だが平和に慣れきった国民は、称賛されたことに舞い上がって、その卑怯さに気がつかない。
ほとんど裸の王様状態。ということは、口では誉めそやしつつも腹で笑っているという国も、ないとは言えないということだ。

とにかく、先のことは、誰にも、何もわからない。
だが、ただ1つ断言できるのは、軍事力を否定している国があるということは、それ以外の国にとって、「これほど都合のいいことはない」ということである。
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2007年07月23日

ジャンケンにおける「最初はグー」の撤廃を求める

このごろテレビで、タレントなどがジャンケンをしているシーンでは、必ずや「最初はグー」という掛け声により、戦いの火ぶたが切られる。そして、やおら「ジャンケン、ポン」。

これがどうも、私にとって違和感がある。

私などは、子どものころから今まで一貫して、いきなり「ジャンケン、ポン」で勝負に入る。
「最初はグー」なんていうムダな儀式は行わない。

そんなこと当たり前だろーが。
そもそもジャンケンなどは、「他の方法では時間がかかる」という場合の善後策として行われるものだ。
要するにスピードが命なのだ。速く決着させたいんだぜ。
とくにテレビなんて「1秒いくら」の世界だと聞くが。

だから「最初はグー」なんていう儀式は、ジャンケンの精神を冒涜する以外の何物でもない。

たかがジャンケンと侮ることなかれ。
ジャンケンは世の中の縮図かもしれない。

原点を忘れている、セレモニーが大好き…

今ちょうど真っ盛りの選挙運動もよく似たものだ。

名前の連呼と、政敵に対する批判のための批判、終盤になると涙声を張り上げる。

これがいわゆる「選挙運動」だと信じて疑わないのだろうが、こんなことで本当に有権者の理解や共感を得られるとでも思っているのだろうか。

せめて、「大声で名前ばかり連呼されても、仕事や生活の迷惑になるだけ」くらいのことは、察しがつくと思うのだが。
やはり、「こうするのが選挙運動だ」と信じている。

最近の候補者は「お世話になります」というフレーズも大好きなようだが、政治家がお世話になってどうするんだ。お世話するのはアンタらだろうが。

原点を忘れている、セレモニーが大好き…

どうして、こんなふうになってしまったのか。
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2007年07月22日

号外

いやいや、久しぶり心温まるニュースに触れた。
インドネシアで唯一エコバッグを販売する予定だった代理店は、ご立派、ご立派。
もう本当に頭が下がる。

この記事は引用していいということなので、下記に転載します。


“エコバッグ”はもはや社会現象 インドネシアで発売中止
2007年07月21日 00:43 発信地:ジャカルタ/インドネシア


【ジャカルタ/インドネシア 20日 AFP】世界各国で大反響を巻き起こしているアニヤ・ハインドマーチ(Anya Hindmarch)のエコバッグがインドネシアで発売中止になった。

 エコバッグは今月20日からインドネシア国内で発売開始予定だったが、香港台湾での人気過熱ぶりを考慮した結果、取りやめるに至った。

インドネシアで唯一エコバッグを販売する予定だった代理店「On Pedder」のSendyさんは「香港で巻き起こった騒ぎを考慮し、販売を中止することにした。14万ルピー(約1870円)のエコバッグを巡って人々が争うことを考えると、販売する価値がないと思う」と語る。後日販売するかどうかは現在未定だという。

7月6日に販売開始となった香港では、「I’m Not A Plastic Bag」というスローガンを掲げたエコバッグを求め、何千人もの客が店舗に押し寄せる騒ぎとなった。
posted by born-in-1959 at 10:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

常勝トヨタに関する「まことしやかな秘話」と、米英の復活

年間の利益が1チョー超。
1チョー、2チョーと言っても、豆腐1チョーてなものではないよ。
トヨタがどうしてこの怪物的な高収益体制を造り得たのか?

その大きな理由の1つは、カローラのような、いちばん売れ筋の大衆車が、いちばん粗利を多く取れるように、部品調達から生産流通までのコストダウンシステムを、周到に組上げたからだという。

乱暴に言うと、クラウンに代表される高級車よりも、カローラを売っていたら儲かる、という仕組みを、である。

要するにカローラは生産コストが安い。
一方、打倒カローラを目指すライバルたちは、そういうコストダウン体制がないまま(つまり、価格の安さに加えて粗利も小さい大衆車より、高級車を売っていた方が儲かるという、ごく常識的な体制のまま)、値引き作戦で、勝負を挑んだ。

もちろん、それに食いつく大衆車ユーザーも少なくない。
だが、それでは売り上げ高は上がっても、肝心の利益にはさほど結びつかない。

自動車メーカーは、いずれも装置産業の超大企業であるにしても、こんなことを続けていたら、当然、体力がもたなくなる。
簡単に言うと、こういうことだ。

トヨタの名誉のために断っておくが、以上は、「知り合いがトヨタに勤めている」という人物から聞いた、まことしやかな話である。
くれぐれも、「トヨタに勤める知り合い」ではないことに、ご留意いただきたい。

かつて、嘉門達夫氏が歌ったように、「知り合いの知り合いは、あくまでも他人」であるから、真偽の程は保証の限りではない。

だがもし、これが本当なら、やはりトヨタはとてつもなく偉い。

そしてもし、これが嘘なら、この嘘を考えた人も素晴らしく偉い。

ITや通信、金融によって、「没落の日々」を脱したアメリカやイギリスも、この「真偽の程は定かではないトヨタ・サクセスストーリー」と、よく似たシナリオを陰で用意していたのではないかと思う。

要するに、ITの浸透、通信や金融の自由化で自分たちが儲かる仕組みをあらかじめ用意しておいて、世界をそこに誘い込む。

だが、これもまた、真偽の程は定かではない。
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2007年07月21日

絵に描いた餅より、食べられる餅

まったく値打ちはわからないが、子どものころから焼き物が好きだった。
旬の魚を焼いたものも好きだが、今言わんとしているのは、陶磁器の方の焼き物。

茶碗、壺、花瓶など陶磁器にもいろいろあるが、一貫して好きなのは、実際に暮らしに使われる陶磁器。徳利、ぐい呑み、灰皿などもそれに入る。

一方、こんなものでとても飲めない、料理なんて盛りつけられない、というような、最初から芸術作品を目指して焼かれた器には、ほとんどと言っていいほど興味がない。

それでも器とわかるものならまだしもだが、その物体自体、何のためのものなのかといった、ほぼ彫刻に近い陶磁器なんて、最初から興味はゼロ。
こういうものは、何らかの形で人様の役に立とうというより、美術館入りすることが、そもそもの目的ではないかとさえ思ってしまう。

以上は、どこにでもいる名もない一市民のたわごとに過ぎないが、日本の伝統建築に携わる職人さんたちへのインタビューを集めた本を読んでいて、うん、と頷ける話と出会った。

伝統技術が廃れていかざるを得ない、という今の状況に言及した現役職人の一言だが、
「仕事を与えていかなかったら、残せるものも残せません。賞を与えるのもいいですけど、それよりも実際の仕事を与えていかないとダメだと思います」
とある。

要するに文化だ、芸術だ、と言っても絵に描いた餅ではいけないのだ。

だが、いわゆる文化人、学識経験者の類いには、絵に描いた餅の方が、ランクが上だと思っている人が多いということなのだろう。
ついでに、その理由を考えてみるに、彼らは絵に描いた餅で十分に食っていけるからかもしれない。
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2007年07月20日

情報とは

正しい語源は知らないが、情報とは、情を報じることだと理解している。

いい情報を聞けば元気になり、悪い情報を聞けば気持ちが落ち込む。

われわれは今、IT社会に住んでいる。ITとはインフォメーション・テクノロジー、つまり情報技術社会。
しかし、情報伝達技術が進化して流される肝心の情報は、どんどん無機化して、「情」とはほど遠いものになろうとしているように思う。

いかに情報の流通が促進されようと、大切なのはコンテンツ
速さや一度に授受できる情報の多さよりも、内容が問題のはずなのだが。

もう1つ、いかに情報の流通が促進されようと、人間の咀嚼能力には限界がある。
それを超えて流される情報に流されないよう留意したいと思うのだが、真面目にそんなことをしていると、時代の流れに取り残される残酷な時代。
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2007年07月19日

反対のための反対の賛成なのだ

「女、子ども」と言ってはいけないのだそうだ。
もちろん書いてもいけないらしい。

知らずにこの言い回しを使ってしまい、顰蹙を買ったことがある。
最初は、なぜ私が顰蹙を買っているのかさえ、思い当たらなかったが。

言葉狩りは、猛烈な速さで進展している。

そこで、今度ついうっかり「女、子ども」と口をついて出てしまった場合の善後策を考えた。
その後にすかさず「は、女風呂に入ってよい」と言うのである。
「女、子どもは、女風呂に入ってよい」なら、文句はあるまい。われながら、非の打ち所のない名セリフではないかと思う。

「女の浅知恵」も、まず禁句だろう。
うっかり言ってしまった場合は、間髪を入れずに「男はもっと浅知恵」と続けるのである。

どうだ、これなら文句はあるまい、と思うのは、少々甘いかもしれない。
批判や反対をすることに積極的な人間は、どんな理屈を駆使してでも、批判や反対をしたがるものだ。

ハッキリ言って、そういう手合いは好きではない。
何とか仕返しをしてやろうと思う。

仕返しをするには、何がいちばん有効だろうかと考えた。
答えは1つ。二度とこんな「失言」をしないことである。

批判や反対が趣味の人間は、批判や反対をする対象がなくなると、いちばん困るものなのだ。

これは靖国参拝問題や従軍慰安婦への謝罪問題にも通じると思う。
たとえば、もし首相、閣僚、与党の政治家などが、靖国参拝を止めてしまえば、それまで、それをネタに批判していた人々が、批判のネタを失い、いちばん困るのではなかろうか。

いや、そういう人々は、「われわれが靖国参拝を止めさせた」と、手柄話を始めるだろう。
しかし、聴衆がその手柄話に飽き始めたら、やっぱり困る。

彼らは再び、「批判のための批判」のネタを、目を皿のようにして探し始めるだろう。
posted by born-in-1959 at 01:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月18日

続・もしも裁判員になったなら

個人のブログとはいえ、一応は裁判員制度に物申すわけだから、まず敵を知るべしである。
なぜ裁判員制度を導入することになったのか、政府のホームページをあたってみた。

何と、Q&A形式など取り入れながら、懇切丁寧にご説明なさっていたのだった(もしかして、国民は物分かりが悪いはずだと、頭から馬鹿にされているのかも)。


その内容は次の通り。1〜5の番号は、後でイチャモンをつけやすいよう筆者がふった。

1)裁判員制度の導入により,法律の専門家ではない国民の皆さんが裁判に参加し,国民の皆さんの感覚が裁判の内容に反映されるようになります。
2)そして,それによって,国民の皆さんの司法に対する理解と支持が深まることが期待されているのです。
3)平成11年からの司法制度改革の中で,有識者を加えた審議会による議論に始まり,長い議論を経て,今年,導入されることが決まりました。
4)また,同時に,裁判員制度では,職業や家庭を持つ国民の方々に裁判に参加していただくことができるようにする必要がありますから,裁判が今よりもずっと迅速に行われるようになることも期待されています。
5)また,裁判の手続や判決の内容を裁判員の方々にとって分かりやすいものとする必要がありますから,国民にとって分かりやすい裁判が実現されることにもなります。


いやいや、笑っちゃいましたねぇ(爆)。根底に流れる他力本願的なコンセプトには。
安易な期待、期待で、制度改革などやってくれるなっちゅうに。

まず1。「法律の専門家ではない国民が裁判に参加し,その感覚が裁判の内容に反映される」ということは、そのうち日本は法治国家ではなくなるのだろうか。
しかし、刑を重くするため裁判員に指名されたいと願っている私にとっては、実に喜ぶべきことではある。
言葉通りに受け取れば、法律では死刑にできない犯罪でも、死刑にできる道が開かれることになるはずだ。

てなわけで、1に限っては考え方によってはウエルカムではあるのだが、2はどうだろう。
「国民の司法に対する理解と支持が深まることが期待」なんて、一見もっともらしいが、それならば、ゆとり教育なんてやってないで、司法に対する理解・支持を深めるよう、きちんと義務教育で叩き込むというのが、法治国家をうたう国としての本来の道だと思うが。

3にしても、まったく国民の気持ちを無視している。チューシャ監視員制度にしてもそうだが、「有識者」と「長い議論」の産物で、善良な国民がどれだけヒドイ目に遭わされてきたのか、お役人様はまったくご存知ないらしい。

4もすごいよ。これはホント、極めつけだぜ。
どれもそうだが、とくにこれって、裁判員制度を導入しなくては解決できないことですかねぇ。
他に用事を持つド素人を参加されたら裁判が速くなるだと。単に、本職の仕事がトロいだけじゃないか。
落語のネタの「ものを尋ねるときは、急いでいるヤツに訊け。すぐに答えが返ってくるから」というのと変わらない。

それとも、法律の専門知識に照らしてきちんと裁判をやっていたら間に合わないから、いい加減なところで手を打とう、ということですかねぇ。それならそうと、ハッキリ書けばいいのにねぇ。

5も国民をナメてますな。今までから裁判の被告も原告も国民である。ということは、これまでの裁判は、国民であるはずの被告にも原告にも、分かりにくいものだったということになる。
これで国民の裁判を受ける権利を十分に保証してきたと言えるのですかい。
とにかくね、民間の常識ではね、「難しいことを分かりやすく説明できるのが、本物のプロであり専門家である」というのが、かなり前からデファクト・スタンダードのはずなのだが…。

要するに、導入の理由のほとんどは、税金で給料を支払われている人々が、クライアント様である国民のことを思って、真面目に仕事をしてきたなら、裁判員制度を導入しなくても済んだはずのことばかりなのだ。
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2007年07月17日

もしも裁判員になったなら

2009年5月までに、裁判員制度がスタートする。
「までに」ということなので、いつからかはハッキリしないが、すでに新制度に則った模擬裁判なども行われており、もはやカウントダウン段階に入っていると言えるだろう。

自分自身が裁判員になるのを嫌がる向きも多いようだが、私自身は、「裁判員に指名されてみたい」という思いは、ないでもない。

理由は単純。本職の裁判官たちの多くが下している甘過ぎる判決を、もっともっと重くできればいい、と思うからだ。
ただ、裁判員になったとして、実際にそれが可能かどうか詳しいことは知らないが。

しかし、なぜ今さら裁判員制度を導入するのか、その意味自体、まったくよくわからない。アメリカの陪審員制度なら、わからなくもないのだが。

アメリカ人の祖先たちは、いわゆる新大陸(勝手な言葉だ)に入植し、近隣に住むことになった者同士が力を合わせて「オラが村」を建設した。
当然ながら、「オラが村」の掟も、各村ごとに個別のものが造り上げられたはずである。

だから、「オラが村の争い事は、オラが村の住民たちの意見でもって決着をつける」という発想は、ごくごく自然なものであり、それをルーツとする陪審員制度なら、存在しても不思議はない。

もっとも、先住民の土地を奪い、彼らを日陰に追いやってできたアメリカという国家の成り立ち自体には、かなりの疑問を感じているが。

元々日本の法律や裁判制度自体、明治の近代化の折りに、西欧から移入されたものだ。
よって今の日本人の法感覚は、「自分たちで掟を造り上げた」というより、「すでに外国でできた掟に、自分たちの感覚を合わせていった」という側面が強いのではないか。

だから、以後、百数十年も経過したこの時代において、何を今さら、という気がするし、本気でやるなら、法律の根本から見直されなければならないだろう。

何かにつけて日本独自のやり方が否定され、グローバルスタンダードという名のアメリカン・スタンダードに塗り替えられようとする中で、司法制度改革を断行するなら、まず「そのグローバル・スタンダードを受け入れるべきか否か」という判断から、国民全体の意見を募って始めるべきだ。
それでどうしても意見が統一できないなら、意見を共有する者を単位として国を分割してもよい。

それほどまでに、今の日本人の考え方は1つのまとまりを欠いている。
そういう中で「オラが国の掟」など、望むべくもないのにね。
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2007年07月16日

ニュースになる命と、ならない命

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北朝鮮による拉致問題。
解決に向けての取り組みは、今もたゆまず続けられていると思うが、一向に進展しない。

横田めぐみさんら拉致被害者の身の回りは、刻々と変化しているだろうし、ご両親など肉親、関係者はどんどん齢を重ねていく。
一刻も早く解決されなければならないのは、今さらここで書くまでもない。

ただ、忘れてならないと思うのは、その間、拉致以外の事件でも、人の命はいともたやすく奪われ続けているということだ。

地震や台風による被災死、飲酒運転者による轢き逃げ、親の虐待、その他諸々の理由で、天寿を全うできない人がたくさんいる。

だが、それらの報道は一過性で、すぐに見向きもされなくなる。
ただ、ニュースになるだけでも大きなことかもしれない。
世間にみじんの関心も持たれず失われていく命は少なくないはずだ。

どんな命も貴さにおいては変わりはない。
マスメディアにしても、決して命の貴さに違いがあるとまでは言い切らないだろう。

だが、「ニュースになる命」と「ならない命」の区別は、かなり堂々となされているように思えてならない。

いつぞやの「矢鴨」と「鴨鍋の具になる鴨」ほどの違いはないにしても。
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2007年07月14日

「地域格差の是正は、歴史的町並みのテーマーパーク化で」という現実

一時は「名水百選」という言葉に惹かれて、ノコノコ出かけていったことがある。

「蔵の町」に「宿場町」「○○商人の町」なんてフレーズを聞くと、おとなしくしていた旅の虫が、うずうずと動き始める。こらえ性のない私は、遅かれ早かれ足を運ぶ。

やはり、そうやって語られる町には、語られるだけの何かがある。
たとえば、名水で知られる町には、木で小屋を組んだような昔がらの共同の水場があり、地元の主婦たちが世間話をしながら、その豊かに溢れる水で野菜を洗っているなど…。

とくに記憶に残っているのは、四半世紀も前の学生時代に訪ねた会津若松。
地元の大旦那が純粋な道楽で始めたような「蔵を改造した喫茶店」(当時は非常にレアだった)なんかがあって、歴史ある町の奥の深さに、つくづく感動したものだ。

ついでに喜多方にも足を延ばした。ラーメンで有名になる前の喜多方に。
ラーメンで有名になる前というより、町を歩いていて、ここの名物がラーメンであるということさえ気がつかなかったくらい町の雰囲気は自然だった。ラーメン店の経営者たちも、さほど旅行者の目を意識していなかったのだろうか。

ところが近年、急速にというか急激にというか、かなり事情が変わってきた。

古木の小屋は、義木できれいに建て替えられ、名水の出口には、磨き上げられた大理石や御影石に、そこを日本の名水に指定した大臣の名前が刻まれていたりする。
以前は本物の旅籠だったような建物の壁が、真っ白に塗り直され、その角先で抹茶ソフトクリームが売られていたり、映画の撮影セットのような張りぼて風の白壁蔵が突如現れ、携帯ストラップなどの土産物がぎっしりと並んでいたり…。

和風カフェや和風イタリア料理店も、最近は「土地の名物化」が進んでますなあ。
和食の店も、代々一家で営んできたような田舎の町食堂では、いわゆる「歴史の町並み」にふさわしくないのか、用もないのにテーブルごとに囲炉裏をしつらえたような高級お食事処が増えている。そこで出される麦飯や粟ご飯なんて、昔は米が高くて買えない場合の代用食だったように思うがねえ。地方へ行けばなぜか人気の蕎麦にしても、痩せた土地に仕方がなく植えたという側面もあったはずだと思う。

かなりの額の町おこし予算がついているのか、電線が埋設され、電柱が見当たらない歴史の町並みも増えてきた。へそ曲がりの私など、コールタールで真っ黒に塗られた木の電柱があった方が、「歴史の町並み」らしく思えるのだが。


取って付けたような「昔ながら」をそこに発見したところで、何の感激もないと思うが、そこそこ賑わっていたりするから、ありがたいと言えばありがたいのかもしれない。

このような「歴史的町並み」の発祥は、高度経済成長期、当時の国鉄がディスカバーJapanキャンペーンに力を入れていたころの倉敷ではないかと記憶している。
アンノン族という言葉が生まれ、若い女性を対象とした雑誌『an・an』『non-no』などの読者がこぞって倉敷に殺到した。
それと呼応して倉敷には、にわか造りの白壁・ナマコ壁風喫茶店・土産物店が増殖する。本当に時代を経てきた蔵の町並みは素晴らしいのだが、そういった新参者のおかげで、町はさながらテーマパークと化していった。
しかし、それでもなお倉敷は人気デスティネーションとして君臨している。まあ、倉敷の場合は、大原美術館など本物志向を満足させる見どころもたくさんあるからだろうが。


近ごろの「歴史的町並み」には、祖先から受け継いだ町が好きで、その町を絶やしたくないからという意識よりも、この町並みを観光資源にして金を稼がねば、という意識が見える。

しかし、それも仕方がないことなのだ。
経済的基盤がなくては、何事も維持できない。いや、それ以上に日々食べていかねばならないのだ。私のような無責任なよそ者が、それを責めるべきではない。

そういう背後には、産業や経済が中央に集中し、地方が空洞化していく、というもっと深刻な問題がある。人口が減りゆく中で、地元客だけを対象に昔ながらの商売をしては、とても生計が立てられないのだ。だからなおいっそう、歴史的町並みのテーマパーク化がエスカレートしていく。

その一方、意外なことに品川や浅草近辺など東京都内に昔ながらの生活風景が残っていたりする。それはひとえに、地方のような深刻な過疎化が進んでいないからではなかろうか。
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2007年07月12日

♪みんなみんなヒステリックだ、友達なんだ

ロンドンへ行ってきた。

私が到着するすぐ前に、法律なのか条例なのかは知らないが、「建物内ではタバコを吸ってはいけない」というルールが登場したらしく、レストランやカフェは言うに及ばず、パブやホテルの室内まですべて禁煙。ヘビースモーカーとしては窮屈な思いを強いられた。

とは言うものの、街中が喫煙者に冷たい視線を浴びせるかというと、全然まったくそうではない。
若い女性やオバサンも、タバコを吸いながら颯爽と街を闊歩している。

その上、街にはほとんど公共の灰皿というものはなく、みんな平気で路上にポイ捨て。しかも、律義に足で火を消すこともなく、火がついたままポーンと投げる。
そのせいか道に落ちている吸い殻のほとんどは、葉っぱが燃えつきフィルターだけという有り様だった。

これが紳士の国イギリスの実態かと半ば呆れてしまったが、そこに漂っているのは、「タバコを吸うのは個人の自由、だけど室内では吸わないでね」という鷹揚な雰囲気。
単に行為としての「室内喫煙」がダメになったというだけで、「喫煙=悪」というレッテルが貼られたわけではないようだった。

私の場合、2泊はホテルで禁煙地獄に苦しんだが、7泊はホームステイであり、家の主人に「部屋でタバコを吸っていいか」と尋ねたところ、「私は吸うが女房は吸わない。だから私は外で吸っている。あんたも吸うときは窓から顔を出して吸えばいい」という返事。

その「女房は吸わない」という言葉の響きも、女が吸うのはもってのほか、というのではなく、「世の中には吸う女もいるが、私の女房は吸わない」といった感じで、価値判断は少しも含まず事実だけを伝えている、というふうに感じられた。

ちなみにではあるが、「酒場でタバコが吸えないようでは、伝統のロックンロール文化が廃れる」という趣旨で、あえてパブ内で抗議の喫煙に打って出た著名ミュージシャンも現れたという。
さすがにパブでの禁煙はロンドンの人間にもこたえたと思われるが、「ロックンロール文化が廃れる」というセリフが泣かせるのう。

喫煙者バッシングが台頭する中でも、居酒屋では当たり前のようにタバコを吸える日本の喫煙者は幸せといえば幸せかも知れない。

しかし、メディアをはじめ、いわゆる有識者・学識経験者たちの主たる論調は、「今の世で喫煙は悪、タバコを吸うのは野蛮人」という方向に傾いているように私の目には感じられる。
テレビ画面でも喫煙シーンがめっきり見られなくなったしね。

もちろん受動喫煙で非喫煙者に被害が及ぶのは良くないし、吸い殻のポイ捨ても良くない。しかし、それは吸う人間のマナーでいくらでも回避できるはずだ。
それに喫煙がそんなに悪なら、タバコを売ったり吸ったりした奴は、すべて死刑にしてくれよな。


まあ喫煙は氷山の一角だが、近ごろ何かにつけ、いったん、これがダメとなったら、ヒステリックに批判のための批判の応酬という風潮が横行しているように思う。

食肉偽装が問題になれば、朝から晩までそのニュースばかり。マンション耐震偽造も然り。日本列島には耐震偽装マンション以外にも、今にも倒壊しそうな建物は五万とあるはずなのにねぇ。
さる暴行魔が逮捕されたときなどは、朝っぱらから「レイプ、レイプ」の大合唱がテレビのスピーカーから流れていたから、頭をいためたご家庭もさぞかし多かったことと拝察する。とくに言葉を覚え始めたお子様のいらっしゃる場合など、かなりのインパクトがあったのではないか。

タバコにしても一昔前までは、教室でタバコを吸う教師もいたし、買い物中の店内でもくわえタバコの客がたくさんいた。応接セットにも灰皿とライターは付き物だったし、どこかを訪問するとまず灰皿が置かれタバコをすすめられたものだ。

そういえば、私の息子が通う小学校に校庭でよくタバコを吸っていた教師がいたが、その教師は定年までかなりの年月を残し、静かに教壇を去っていった。今は故郷で農業をしているらしいが、早期退職の理由は何だったのだろうか。

さすが排仏毀釈の伝統を誇る大和民族。いったん「これが悪」と決まったら、一気にその悪を排除する方向に突っ走れるから大したものだ。
その割にほとんど世の中が良くならず、悪い方向へ進んでいるように感じるが、いかがなものか。
posted by born-in-1959 at 01:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする